投稿者: S

  • 意味をデザインする

    意味をデザインする

    われわれが「デザイン」という時は、まさにこの意味で使っているという動画があったので紹介します。

    この動画は多分、立命館大学の新学部のPR動画ですが、その前段で企業とデザインの話をしています。その部分を是非ご覧いただきたいです。

    「概念のデザイン」「経営者以外も重要」「意味=価値」「問題解決から離れる」「愛について考える」

    なかなか濃密な言葉が詰まっている動画です。
    全部じっくり語りたいくらいですwww

    「企業が存在する意味をデザインするのがブランディング」「正解を作っていく」「意思が大事」。

    こういうのって大企業だけのことだとお思いではありませんか?

    我々は毎年1名でも雇用をする規模感であれば、ほぼほぼ同じように機能するのがここで語られている「デザイン」だと考えています。

    この動画では度々、意味をデザインする。

    例えばビジョン、経営理念などわかりやすいと思います。

    この動画の最後のほうで可士和さんが「星を繋げてかに座を作る」という話をしていますが、まさにそれなんです。

    みなさんは星座の星を線でつないだ図を見て、あれがカニ?双子?オリオン?天秤?って思いませんでしたか?

    僕は強引だなと思ってました。
    でも、かに座はかに座なんです。

    まさに、意味の本質ですよね。

    意味そのものをデザインするとは、物事の価値観を作っていく事であり、それを宣言する事であり、周りに納得してもらうことなんです。

    Wikipedeiaによりますと、16世紀のヨーロッパの星座でかに座(Cancer)にロブスターの絵をあてているものもあるようです。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%BA%A7

    ちなみに癌の英語、Cancerの語源でもあるそうです。
    癌が広がる様子がカニの足を広げる感じに似ていたからだそうです。

    まさに意味の本質は「その意味にすること」なんです。
    意味は作らなくっちゃならないんです。

    まず誰かが「この意味で使う」と決めてなくっちゃいけません。
    決めただけではだめでそれを明文化して宣言しなくてはなりません。
    宣言しただけではだめで、使っていかなくてはなりません。
    使っていくだけではだめで、広めていかなくてはなりません。
    他の人も使い始めて、ようやくその言葉の意味となります。

    企業のビジョンや理念、ブランディングと同じですね。

    つくるのも大変だとは思いますが、それを広めていくのはもっと大変です。
    ですが、経営陣以外がその意味を使い始めたとき、きっと自分たちの努力だけでは作れないものが生まれ始めているはずです。

    丁度この動画の話で、物流の例えが出ていましたが、意味をデザインすることの目的は、その意味を周りに活用してもらう事です。
    意味が価値を創り出していきます。

    デザインにはそういう力があります。

    このデザインのチカラを是非、広めていきたいです。


    余談ですが、AIがデザインに及ぼす影響について佐藤可士和さんが「ポジティブな方向にもっていかないといけない」と言っているのにちょっと安心。
    ぼくも聞かれればこういう表現を使うしかないなと思っているので、同じ意味で使っているのだと、勝手に思う事にしました。

    この裏には、デザイナーにとっては、放っておいたらネガティブな面が強くなるかもしれないという意味が隠れていると思います。

    これはデザイナーの話です。
    AIに出来ない仕事があるという話をしていますが、AIに出来ない仕事をするには相当に勉強しないといけないでしょう。

    一般の方には、ポジティブな影響のほうがはるかに多いと思います。
    デザイナーにはちょっとした試練の時代です。

  • 心からのざっくりワードは力強い

    心からのざっくりワードは力強い

    何気なく読んだネット記事にあったEVについての記事にあった文です。
    レクサスからテスラへの乗り換えを検討している消費者がインタビューに答えている。

    僕はそれを読んでとても羨ましくなった。

    それがこちら。

    「私は次は何に買い換えようかと常に新しいものを探し続けるタイプ。それが昔から習慣なんだ」

    原文の記事はこちら

    東洋経済「日本車からテスラ、そしてサイバートラックへ」アメリカで起きているEVシフト加速の現実
    https://toyokeizai.net/articles/-/888151?page=3

    記事の内容はどうでもいいのですが、なんと気持ちよい宣言でしょう。

    どうしてって聞かれて、「知らない。そういうタイプだからだよ。」って、いっそすがすがしいですよね。

    日本語訳されるまえはどう表現しているのかわかりませんが、そういうタイプで習慣だというのは自分でも否定しようのない性向があると言っているように聞こえますよね。

    でも実際、求める側は大抵これくらいシンプルなんですよね。

    基本的にニーズ側はシンプルなんです。

    でも、提供側はそうシンプルで入れません。

    別の人は「環境にどう対応しているかが大事だ。僕はいつだってそれを大切にしているんだ。」というかもしれないし、「直観的にこのデザインは乗るしかないと思ったね」というかもしれない。

    その商品やサービスの特徴にある程度幅を持たせていく必要が出てきます。

    もう面倒になってつい「あらゆるニーズにお応えします」といいくなります。

    でもそうすると主張がぼやけてしまうので広告はしにくくなります。

    テスラのこのトラックのデザインは確かに新しいです。ですが、ピックアップトラックに乗る誰もが新しいものを探しているわけじゃないので、これが唯一の正解というわけじゃないです。

    テスラはEVしか作らないのである程度方向性は限られますが、このデザインである必要はありません。それを決めるのがブランディングです。

    ある意味ブランディングは正解を探すのではなく、作っていく、決めていく行為です。

    企業のブランディングも同じで、社内外のニーズの一つ一つはいたってシンプルなことが多いのですが、集合となるといろんな可能性が出てきます。

    ブランディングは減点方式では決められません。

    100点の正解があって、そこに近づけようとするのではありません。

    加点方式です。

    一つ一つ決定を繰り返して、出来るだけ点を上げていきます。

    ですから、結果100点を超えるかもしれません。

    そこが難しいところです。

    ここまでやれば正解というのがなくて、それを正解と意思決定しなければならないのです。

    それは経営陣や従業員皆がこのテスラを欲しがっている方のように言えるようになることだと思います。

    たとえば「社会のために最新技術を追求する」というビジョンの会社があるとして、スタッフの一人が誰かになぜその事業に挑戦するのか聞かれたときに、「我々は社会課題を解決するために常に新しい技術を探し続ているんです。それが我々なんです」と言えれば素敵ですよね。

    企業文化のブランディングのゴールの一つがここです。

    ざっくりしたワードですけど、これが自分の言葉で出てくるといかにも力強いですよね。細かいことは言葉で説明できなくっても、やっている価値観が腹落ちしていれば「それが我々だ」って言える。

    そこが重要だと思います。

    だから、言葉を決めて配布するのはまだ入り口なんです。

    それがどう納得のレベルになっていくか。

    そこが重要なんです。

  • 特級呪物もしくは「デ。」

    特級呪物もしくは「デ。」

    さて。
    我々はデザインの話をしたいのですが、現段階では生成AIが一番話が通じるという、呪われた言葉の様相を呈しています。

    おそらくこれは、言葉の専門用語性の問題です。

    要は業界用語とか、狭い世界での慣用句、定義が一般ではない言葉遣い。

    察するにそんなことなんです。

    おそらく、皆さんの業界にも普通にあることでしょう。

    ある事柄への理解の解像度がコミュニケーションの障害になるというのは、実に一般的な話です。

    地動説をテーマにした漫画/アニメ「チ。」が話題になりました。
    天動説が主流の時代に地動説を探求する人々のストーリーです。
    同じ認識を持つ、いわゆる「共通言語」を持てれば意気投合できるけど、そうでなければ理解しがたい。「チ。」もそういう話だったと思います。

    われわれはもうドップリ地動説の側にいるので、彼らは正しい事のために戦っているように見えてしまうけど、リアルタイムで見ていたらどうだったろうか。理科の授業に四苦八苦したような僕が当時の人なら、いかにも無茶なことをしている連中だなって思ったのではないだろうか?

    デザインという言葉は実際にとても幅広く使われている言葉です。

    デザイナーの中でも明確な定義がなく、我々が使いたい語彙で認識してくれているデザイナーは恐らく少数派です。

    デザイナーでさえそうなので、一般の方はなおさらです。

    ですので我々はそれをあえて「広義のデザイン」と呼ばなくてはならないでしょう。我々はそんなデザインの話をしたいんです。

    デザインって何?

    我々にとってそれは、多分生まれつき知っていたものなんです。当然のように世界にある理で、物心ついたころから感覚していました。

    どうやらそれはデザインと呼ぶらしい。

    そう知ったのは大人になってからです。

    そしてどうやらそれは一般的な語彙ではないようだと最近知りました。

    僕にとって大きな転機は生成AIでした。
    特に昨年あたりのアップデートで、かなり自然な言語、言葉足らずな僕の日本語を正確に捉えてくれるようになったあたりからです。

    たとえば以下の文章はChatGPTが生成したものです。

    デザインには設計という意味がありますが、これは僕が指示したのではなく、ChatGPTから使ってきた表現です。そして僕の意図した文章です。
    ずいぶんとこちらの意図を組んで正確につってくれたな、という感じです。

    生成AIは人が作った言葉を大量にインプットして作ったものなので、これは多くの人の共通認識としてこの意味でデザインという言葉を使っているという事です。

    まぁ、生成AIを持ち出すまでもなく、デザイン関連諸書籍で読んだり、なにより先輩方から聴いてきた用法、共通言語なんです。

    ところが、このニュアンスでは話が通じないデザイナーもいるんです。というのも、この語彙は必ずしもデザイン系の学校で教えられるものではないからです。

    僕の師匠にあたる人とは普通にこの語彙で会話していたし、このグループのなかまともこの語彙で会話が出来ている。体感ですが、十人に一人くらいじゃないでしょうか。

    要は、デザインとは定義があいまいな言葉なのです。

    理由はいくつかあると思います。

    この言葉が現在的な意味でつかわれるようになるのは、産業革命時のプロダクトデザインからだと言われています。大量生産されるようになって、職業的なデザイナーが生まれ、マスメディアも生まれて・・・という流れです。

    そこで、様々な工業製品から建築やファッション、出版物、印刷物の分野でそれぞれのデザイナーが活躍の場を広げていって現在に至ります。

    ただ、広い意味でのデザイン的な行為を考えればもっとさかのぼれます。江戸時代にはすでに屋号やブランドをロゴにしています。もっと古い、遺跡として発掘されるギリシア時代の看板やサインもあります。いや、縄文時代の土器もそうですし、石器時代の石器もデザインされてる言っていいと思います。

    デザインという概念が確立するのはここ150年ほどのことですが、デザインという人の行為そのものは、人が意識的に何かの目的のために道具を創り出したころまでさかのぼれそうです。

    どこまでがデザイン?

    では、蜘蛛の巣やアリ塚はデザインされているのか?
    確かに美しい均衡を見出すことは出来ます。ここにはいろいろな意見が分かれるところだと思いますが、僕は、あれはデザインだと思っています。課題を解決するために構造を作る。デザインそのものじゃないですか。

    では、サボテンやキノコ、火山活動や河川による台地の浸食、秋の雲や夜空の天野川はどうでしょう。
    造形は美しいです。が、デザインとはさすがに言えません。
    やはりデザインには、なにかしらの意思が介在しないといけないと思います。

    その意味では蝶の羽も、ワニやライオンや人体も、それはデザインではない。ただ、ネコや犬になってくると悩ましい。何かしらの意図は介在してしまっているので、デザインと言っていいように思います。

    それでも「サボテンのデザインは」とか「蝶の羽のデザインは」とか言いたくなります。その意匠にはやはりデザインのエッセンスがあるからです。おそらくですが、我々が直感的に感じる美しさや均衡という感覚には、かなり原始的なものが混ざっているようですし、それらの種を越えた造形に共通項を見出すことが出来るからです。

    神が世界をデザインしたと言いたくなる気持ちはすごくわかります。


    と、このように、デザインという言葉を広く取っていくと、どこまでも広げていくことが出来ます。

    今までの話を整理すると、3段階に区分できます。

    この世界の法則性としてのデザイン

    人類の営みとしてのデザイン

    産業としてのデザイン

    僕らはこの三つをごっちゃに話しているので、誰かが「神秘的なデザイン」なんて言ったときに、その人が宇宙の神秘をイメージしているのかもしれないし、占い屋の店舗をイメージしているのかもしれないんです。

    つまりデザインは、ヒト社会の文化や技術の発展とともにその対象を広げてきた言葉なんです。

    産業革命以降は特に、ニーズに合わせてその活躍の場を広げてきました。

    よく言われるのが、産業革命で製品が安く大量に作られるようになった時に、生産性を優先して粗悪なものが増えたようなんです。手仕事の時代の良い製品に比べると品質が悪くなったんですね。そこから現在的な「デザイン」が発展していったと言われます。
    使い心地や耐久性と生産性を両立するデザインなどが追及されるようになった。その後デザインは、さまざまな技術の進歩と共に、新しい分野で生まれていきます。自動車や家電製品といった機械になると「操作」をデザインする必要が出てきたり、雑誌や新聞広告になると「情報」をデザインする必要が出てきたり、コンピューター、インターネット、SNS・・・とにかく「ほにゃららのデザイン」が次々と生まれていきます。

    時代のニーズと共にどんどん専門分野が発生して言った感じなんですね。学問的に枝分かれしていったわけではなく、いろんなところから生まれ出た感じです。

    その結果、「デザイン」を俯瞰して教えられるのは美大とかでデザイン史を習う人くらいで、建築家は建築を、グラフィックデザイナーはグラフィックデザインを学ぶといった感じで、デザイナーは専門分野に特化しているのが普通になっていきます。僕も残念ながらファッションデザインがよくわかりません。

    では、デザインを共通言語として使うとはどういうことなのか?

    その前に、もう一つデザインの特性を考えてみたいと思いおもいます。

    それは、僕が若いころにふと思い至ったことです。

    デザインに普遍的な価値感は無いのか?

    人類に通底する普遍的な「美しいデザイン」は存在するのか?

    デザインの普遍性

    まず大前提として、僕は人類に共通する「美しいデザイン」という感覚があるとずっと思っていました。なぜなら、自分の子供の頃の記憶をたどってみても、かなり小さいころからデザイン的な美しさを意識ていたと思えるからです。

    もちろん、このデザインは―――なんて思っていたわけではなく、あの車の形は何かいいなーとか、変わってるなーとか、面白いなーとか、そんなレベルですよ。でも、造形に対して良し悪しを感じた記憶は、かなり古いものがあります。家族にそんなことに興味ある人はいなかったですし、ぼくも意識して感じたものではないので、多分、ほぼほぼ生まれつきの感覚に近いと思います。

    この「良いかたち」という感覚は、僕にとっては生まれつきのものなので、あの人かっこいいとか、あの料理美味しいとか、あの音楽いいとか、そんなことと同じに捉えていました。

    なので、美しいデザインには普遍性があるとなんとなく思ってました。

    ただ、デザインを仕事にしていくと、そうでもないかもしれないと思える事と多々出会いました

    「この料理美味しい」とか「あの俳優さんは美人だね」というのは好みの差こそあれ、判断できないってことはないですよね。

    「私はその美味しさわからないわ」という時も、それは好みではないという意味ですよね。中には味音痴だという人もいますし、食べれればなんでもいいという人もいますが、少数派ですよね。

    でも、「私はそのデザインはわからないわ」というならともかく、「私はデザインはわからないわ」という人とまぁまぁ頻繁に出会うんです。

    味がわからないというレベルで、デザインがわからないという人と良く出会うんです。というか、デザインはプロに任せるのでというわけです。

    いやいやいやいや。
    日本に生まれたら否応なしにテレビコマーシャルや広告にまみれて、家電製品、文具、建築、何から何までデザインされたものの中で生きてきて、わからんわけないでしょ!

    と、最初は思ってましたが、どうやら本当にわからないらしい。

    そこから、デザインの普遍性を疑うようになりました。

    学習しないと身につかないものなのか?

    ダサい服装のデザイナー

    僕はある日、あらためてデザインについて考えていて、ふと、自分の服装がダサい事に気付きました。そう、僕の私服はダサいんです。単純に僕は自分自身の身体のデザインが嫌いなので、それに何をあわせてもいいデザインにならないという思いがあるのでファッションはあきらめてるんです。

    僕に何を着せても一緒だと。

    多分、ファッションデザイナーの勉強をすれば、ある程度は出来ると思います。それはファッションデザインに限らず、そもそもデザインというものは誰でもちゃんと知識を積めばある程度できるようになるものです。でも、現段階ではとても理解の解像度が低い。
    完全な情報不足です。

    そこで僕は一つの仮説にたどり着きます。

    一般の人は人生で我々が話したい意味での「デザイン」を意識することがほとんどないんじゃないか?

    つまり認知の対象としてこなかった。

    食事はおいしいかどうかは結構子供の頃から聞かれますよね。

    「あーん」「おいしい?」はもうセットですよね。

    子供の頃からその対象物への判断を訓練されているわけです。

    人の容姿もそうです。

    あの子可愛い、あの人かっこいいは、何かにつけてジャッジを求められます。

    それに対してデザインはどうでしょう?

    「この絵本のデザインどう?」とか「この教科書のデザインいいよねー」なんて、まぁ言わないわけです。

    でも「あの車かっこいい」とか「その服に合っている」は言うじゃないか。可愛い雑貨とか、かっこいいガジェットとか。いや、お化粧なんかまさにデザインの実践でしょ。
    めっちゃ日常的にデザインと接している。

    でも、そんな日常的に使うデザインという言葉は、なぜか我々が使いたい意味のデザインとは結び付いていないんです。

    つまり、一般的な語彙として共通性を持つには、それを対象化して興味関心を持っていく体験が一般的でないと難しいというだけではないだろうか。

    言葉は広く知られているし、きっと価値観として普遍性はあるけど認知がない。

    きっとそういうことに違いない。

    そう考えて僕は、改めてここで人の認知について勉強しました。人類が共通してもっている認知能力とはどんなものだろうかと思った次第です。

    たとえば、人にはまっすぐっぽい造形の連続を「直線」と判断できるように視覚情報を補正する機能があります。なので、まっすぐの線に小さな点をちょっとはみ出してつけてみると、人はそこに注目するようになっています。

    この能力がサバンナの生活の何に役に立ったのかわかりませんが、かなり原始的な能力として、人の視覚は他と違うもところを見つけるのが得意いです。

    これは、人類に共通する特徴なので、デザインに対する普遍性の根拠の一つになるかもしれません。

    こんな感じで色々調べた結果、僕はデザインに普遍性があるという点は間違いないと思っています。

    調べれば調べるほど、原始的な人の身体的な特徴から良いデザインが生み出されたと考えるのが妥当で、むしろそれに強く制限されているという印象です。人の視覚は一般的には可視光線しか感知できません。ただそれもいくらかバリエーションがあるようで、色をどう感知するかはかなり個体差がありそうです。おそらく味覚や聴覚も同じで、僕はゴーヤーが苦手なのですが、食べると少し気分が悪くなります。西洋人はワサビのツンとするのを感じにくいと言います。感覚系にはかなりの個体差があると思ったほうがよく、そこに文化や個人的な経験も関係してきます。

    だから、そこから知識的な価値観としての「デザイン」に結び付けるには相当な距離があるとも思えてきました。

    どこまでを「デザイン」の普遍性と言えるのか?

    そんなときにふと「パルテノン神殿ってかっこよくね?」と思い至りました。

    歴史的なデザイナーって何を「良いデザイン」と考えていたのだろう?

    どう見ても、今と共通している価値観があるよね。
    ぜったいあるよね。これ!

    少なくとも西洋のデザインは余裕で2~3000年さかのぼれそうだ。

    西洋的なデザイン

    「デザイン」という概念が明確に使われるようになったのは産業革命以降という話をしました。さらに学校で学ぶような形になるのは第二次大戦後と言ってもいいと思います。特に現在的な意味でつかわれるようになるのは20世紀後半になってからでしょう。

    技術や制作スキルの問題があるので、石器時代の壁画をどう考えるかは難しいのですが、建造物の遺跡が残る時代のものは明らかな「デザイン」を見て取ることが出来ます。

    エジプトの遺跡とかはもう普通に美しいデザインです。

    おそらく人類にはもっと古い時代からデザイン的なセンスの根源があって、技術の発展を待っていたように思えます。幾何学なんて、いまでもデザインの重要なエッセンスで、今でも取り扱いの難しい概念ですよね。

    物事を構造的にとらえようとする発想が生まれたときから、デザインは加速したように思えます。多分、重量物(大きな建造物)をどうにかしようとしたあたりからなのではないかと勝手に想像しています。

    これはほんとうに勝手な想像なのですが、概念を具現化、もしくは再現しようとして、価値観の構造を考えていったのだと思うんです。

    つまり、デザインの根源には、普遍性の追求があったと思うんです。

    それが政治のためだったのか、祭祀のためであったのか、戦争のためだったのか、単なる好奇心だったのか。そのすべてだったのかもしれません。

    人は、概念を構造化して、再現性あるものにしなければならなかった。

    いや、それが出来た者(というか社会)が優位になれた。

    一度再現性があるものが作れると、それをベースに発展させることが出来る。

    概念を再現性あるものに出来ると、きっと社会の発展が加速したはずです。

    ギリシア時代から中世にかけてはそれほど技術が進化しなかったからか変化はゆっくりですが、近世になると技術的な大きなブレイクスルーもあり、世界が大きく変化してく過程で、いろんな分野のクリエイターが増えたのかもしれません。

    いろんな立場の人が作品を作り、それが広がり、認知され、発展するというサイクルが回り出したのかもしれません。

    とにかく、デザイン的に面白いものがどんどん出始めます。

    産業革命前に、すでにデザインはあちらこちらで今に通底する価値観を構造化していっているように僕には思えます。

    ここから産業革命を通じて、大衆文化、大量消費、グローバル化、デジタル化と、現在我々が学ぶ西洋的デザインとして発展していきます。

    ここであえて西洋的なデザインと言いましたが、我々日本人が習って、今使っているのも基本は西洋のデザインです。

    少しややこしいのですが、現在は明治以降100年以上かけて日本文化に西洋文化を混ぜ合わせてきたので、少なくともデザイン面ではかなり日本風味は薄くなりました。

    それを端的に示す言葉が「和風」です。
    自分たちの文化を「風」と表現するくらい遠いものになっています。

    ですので、日本では西洋的なデザインと、かつての日本文化を継承した日本的デザインがあるのですが、日本的デザインよりかは西洋的なデザインの方が強く表れていると思います。

    でもそれは文化的な話で、デザインという概念はそれをオーバーラップします。

    そのことを僕はある日本画家の作品から確信しました。

    西洋かどうかは多分関係ない

    そのことを意識したのは、デザインの勉強を始めて、書体のことを学び始めたと気でしょうか。

    江戸時代の看板の「意匠」と、今の「デザイン」はイコールではありません。でも、出来上がった成果物をを並べてみると、基本概念は共通しているように思えます。

    ですが、やっぱりグラフィックデザインの基本はアルファベットを基準にしていて、日本語はどうしてもうまくなじまないんです。

    もちろん日本語のフォントを使ったすごいデザインは一杯あるんですが、文字として、どうにも不格好なんです。でもそれはものすごく当たり前のことで、日本語は毛筆の縦書きでデザインを進化させてきたんですよね。

    前後の文字の関係で書き方を変えてバランスをとる、そういう書体として長年進化してきました。だから、一文字の大きさを固定する印刷とは、そもそもデザインが合わないんですよね。

    そんな感じで、建築もものづくりも、日本のデザインと西洋のデザインはやはり文化的な背景がかなり異なります。

    なので、この作品を見たときは衝撃を受けました。

    それが19世紀前半の日本画家、鈴木 其一(すずき きいつ)の作品です。

    Wikipediaに掲載されている画像をそのままここに貼ります。

    鈴木wiki

    きれいですね。
    現在の西洋的なデザインの構成に見えます。
    このほかにも彼の作品は現在の西洋デザインと同じ構成の概念を使っているように思えます。

    違う文化を土壌にしても、こういうデザインが出来たんだ。これって、めっちゃ普遍的な価値観があるってことじゃないか?

    そう思って、あらためていろいろな日本近世のデザインを見てみるとすごく面白いんです。

    江戸時代の着物のデザインとか、ふすまのデザインとか、デザイナーが楽しみまくったに違いないってものがいっぱいありますよね。姫路城をデザインした人ってどんなチームだったんでしょうね。遠くから見た美しさを考えていたはずなんだけど、どこでどう学んだんだろう?

    ほんとうに戦争中の緊迫した状態で作ったのかと言いたくなるくらい、デザインに遊びを感じるんですよね。

    それも、現在のデザイナーがしているような遊びです。

    僕が建築無知なのでそう感じるだけかもしれませんが。

    この時代のデザインには現在のデザインでも「遊び」ととらえられるような余裕というか、デザイナーが構造をいじくって楽しんでいると思えるデザインがいっぱい出てくることに気付きました。

    ただ、歴史的な時間の近さで、ちゃんとした形で現存しているものが多いからそう感じるのかもしれません。

    でもでも、西洋でも、日本でもそれがあるって、やっぱりこれは普遍性なのでは。その視点でほかの文化の歴史的な造形物を見てみると、ちょっと違って見えてきました。

    アボリジニの道具や中南米の遺跡、東南アジアの遺跡、縄文時代のもの、古墳時代のもの・・・なにか機能だけではないところに、その時代の必要性や概念だけではなく、クリエイターの遊び的なものがあるように見えてきます。

    遊びと言って悪ければ、造形を思いついた興奮というか、方に知る楽しさというか。それは神秘的な体験だったのかもしれません。でも現在に通じるものが多々あるように思える。

    それは、色々な文化に通底する、普遍的な価値観ではないのだろうか?

    「デ。」-デザインの一般性について-

    さて、やっと本題です。

    我々は「デザイン」の話がしたいんです。

    でもこれがなかなかの呪いなんですよ。

    今まで見てきた通り、この言葉はかなり多義的に使われていて、しかも歴史の浅い言葉で、しかも複数の分野でそれぞれ勝手に使われていて、しかも、一般の人からは距離を置かれている。

    誰もが知っている一般的な単語なのに、ぜんぜん共通認識がないんです。

    ぜんぜん共通言語じゃないんです。

    だからこそ、我々はここでデザインという言葉の定義の話をしたいんです。

    デザインには動かないコアがある。

    人類に通底するコアがあるんです。

    コアというか、プラットフォームのようなもの。

    そのプラットフォームを使って定義できる「広義のデザイン」が存在し、それはある程度科学的に整理できるはず。

    僕たちは、そんなデザインの話がしたいんです。

    少し詳しく話をしますと、我々はデザインとは普遍的な価値観(法則)に基づくものであり、もうちょっと科学的に話が出来るものだと思っています。

    とはいえ「価値観」であったり「価値判断」であったり「感動」であったりと、数値化するのがむづかしい要素を取り扱うものであることには違いありません。

    実際問題、かなり情緒的なことを取り扱います。

    たとえば、デザイン的な考え方を公式化出来るとしても、そこに人の感情が絡む以上、かなりブレ幅はあると思います。

    でも、ある程度共通言語として語れているものを、多少なりとも整理して公式的なものにすれば、デザインがもっと使い勝手のいいものになるのではないだろうか。

    我々はそこにデザインの可能性を見出しています。

    だからこの、みんな知っているのにぜんぜん共通言語として使えないこのデザインという言葉を、われわれは呪われ言葉だと思っているんです。

    この呪いをはらって「デザイン」に、次の新たな展開をもたらしたいのです。

    べつに迫害されていませんけどwww

  • 素敵なブランドムービー「まだフォルクスワーゲンじゃない」

    素敵なブランドムービー「まだフォルクスワーゲンじゃない」

    すてきなブランドムービー!

    2年くらい前から使っているもののようですが、僕は最近見ました。

    誰かがつかなければフォルクスワーゲンは完成しないという価値観を

    まだフォルクスワーゲンじゃない

    という言葉にきゅっと集約している

    このワードを軸に展開して、あなたの人生にフォルクスワーゲンはありますか?と問うわけですよね。

    でもそれって、思い出を彩るそのシーンは絵になっているかっていう問いでもあり、家族や恋人に安心と快適さを提供しているかという問いでもあるし、その時の街の風景はどうだったという問いでもある。

    いろんなところに話は飛ぶけど、基本、ユーザーの体験に回帰するストーリーですよねー。

    ひとつ気になるのはあらゆる人がのれるようになるまではの部分かな。
    わからないけど、もともとなかったシーンじゃないのかな?

    と思って英語版を探してみたら、セリフの量がちょっと違った。
    英語版だとシーン切り替えが自然だった。
    50秒目の両親のところと、次のシーンが日本語の方がセリフがちょっと長い。
    だから次のシーンも少しセリフの頭が英語よりも遅い。
    makes us smileのsmileで黄色の車がちゃんとはまっていて気持ちがいいです。

    ↓英語版

    まぁ、それは細かい話で、そんなことはどうでもいいくらい素敵です。

    価値をデザインするって、きっとこういうことなんだろうなと思わせてくれる。

    これは大企業だから作れるってものではなく、中小企業でも、個人事業でも、趣味のクラブでも作れます。

    むしろ意思決定がシンプルな小さい組織の方が作りやすいんじゃないでしょうか。

    でも誰でも作れるわけじゃないです。

    デザイナーが勝手に頑張っても、それは嘘のストーリーにしかならないですから、このストーリーはどこかで文化のレベルまで昇華されていないと出来ないんじゃないのかなと思います。

    僕は自分の事業で、こんなムービーは作れないです。
    恥ずかしながら、それに耐えられる揺るがない価値観を持ち合わせていないですから。

    いつかはこんなムービーが作れるようになりたいものです。

  • スモールビジネスのブランディング

    スモールビジネスのブランディング

    ブランディングってどういう意味ですか?

    これから経営者として、責任者として、個人事業主として、もしブランディングに取り組もうとされるのでしたら、是非、ブランディングって言葉の定義があいまいだってことをまず覚えていてほしいです。

    いわゆるバズワードの一つだと思います。
    明確な定義はないけど、なんとなく雰囲気が伝わる言葉。

    デザイナーやコンサルが企画書で便利に使っている言葉。

    インフルエンサーや情報商材屋が持論を展開するために有効な言葉。

    「ブランディング」

    ググれば数多くの説明が出てきて、カタカナワードでカッコよく教えてくれる。私も仕事柄、本を読んだり、ブログを読んだり、動画を見たり、カタカナワードとじゃれ合ってきました。

    なんか、かっこいいですもんね。

    つい使いたくなっちゃいます。

    でも、考えれば考えるほど、そして使えば使うほど多面的な言葉だと思うようになりました。

    ここで、今現在の私の考えるブランディングを整理してみたいと思います。

    ビジョン

    ブランディングを調べたときに出てくるカタカナ。その中でひときわ異彩を放つのが「ビジョン」です。

    なんとも香しきも気高いワード。

    もうなんかすでにキラキラしています。

    そして「ビジョン」の従順なる従者「ミッション」。

    まだ物足りない人には「コアバリュー」を召喚しますか!

    どう違うの?

    私も、何度も調べました。

    いろんな解説があって、結局よくわかりませんでした。

    今では私なりの定義をしていますが、その定義が一般的かどうかはわかりませんし、伝わらないことの方が多いです。

    ただ言えることは、ビジョンってなんかかっこいい。もうこれは素晴らしいデザインのブランドバッグ、精密な意匠の高級腕時計、最小回転半径のやたらデカいSUVと並べても見劣りのしないステータスだと、私は本気でそう思っています。

    「あなたの会社のビジョンは何ですか?」

    その問いに対して熱く語ってくれる経営者のイメージは、ブレの少ない合理的な判断力と決断力、そして周りを率いる統率力を持っている方、というイメージです。

    なので、われわれデザイナーも注目します。

    特に会社案内やコーポレートサイトなど、その組織、法人そのものを表現するものを制作するときは、ビジョンがなくてもヒアリングでそれらしいものを探ります。

    社訓や社是では倫理観が中心になっていることが多いですが、もちろんそれも重要なものです。もしくは経営者個人の座右の銘からイメージを広げていく事もあります。

    ビジョンという形で明文化されていなくても、それに準ずるもの、どこに想いをもって経営していらっしゃるのか。

    それを探ることからデザインをしてく。

    僕はずっと、それが正しいアプローチだと思っていました。

    ですが最近、その考えを改めなければならないと思い始めています。

    AI・ノーコードが変えるリソースとコスパの関係

    従来からブランディングに関するデザイン制作や情報発信を内製化してコストダウンするという話はありました。ですが、必ずネックになるのがスキルです。人件費と言い換えてもいいかもしれません。

    デザイン制作はやはり専門的な技術が必要な分野です。その学習にどれくらい時間がかかるかがコストに直に跳ね返ってきます。一人前になるのに10年とか平気で言っていました。内製スタッフのデザインスキルのために10年も経験積ませるなんてことは、経営規模に余裕がないと出来ません。なので、スモールビジネスではどこまで内製化するかは常にシビアな問題でした。

    我々のサイト制作の提案でも、どこまでを社内でして、どこまでを外注にするかはとても重要なポイントです。

    30年前なら外注一択だったと思います。

    その後、ブログ、SNS、ネット印刷、クラウドのノーコードツール、スマホと技術が目まぐるしく拡張していって、最近はAIの話題でもちっきりです。

    これらの変化を図で表すと以下のようになります。

    簡単に言いますと、プロでなくては出来ない領域がへり、誰でもできる領域が広がりました。プロに頼んでコスパを出すには、ある程度難易度の高い事、専門的知見のいる事に限られていき、パソコンが得意、いやスマホを使えれば出来るってことがどんどん増えていっています。

    では、ブランディングはどうでしょうか。

    普通に考えれば、専門的な知見のいる領域です。

    しかし、ここにマーケティング的な成果を重ね合わせると変わってきます。

    従来ではコストの問題でできなかったマーケティング戦略が、AIやノーコードツールのおかげでできる可能性が出てきました。

    つまりは、デザイナーの経験によらなくても、手数とその分析というマーケティング的なやり方が極めて有効だと考えられるゾーンがどんどん拡張していっているのです。

    逆に言うと、従来はコストをかけないと十分な制作物が出来なかったため選択肢が少なかった。ですので従来の中小企業はブランディングではなく、体裁を整える必要がある時はデザイナー先生を召喚し、販促のためには広告を使うしかありませんでした。

    それが一番コスパが良かったんですね。

    状況が変わり始めるのがSNSとスマートフォン、ブロードバンドが普及し始める10年ほど前です。

    従来の手法とは違う選択肢がでてきました。

    それでも「デザイン」するには専用のソフトが必要で、そのための知識が必要でした。

    その状況を大きく変えようとしているのがAIです。

    2025年6月現在、今はまだそんなツールはありません。
    このあとどれくらいかかるかも正確にはわかりません。
    ですが確実に誰でも「デザイン」できる領域は広がっていっています。

    その変化がもたらすのが、上記のグラフです。

    従来ならコスパが悪くてできなかった戦略、「デザインを量産して手数を打つ」がどんどんできるようになっていっています。

    そこでは従来のブランディングではないブランディング戦略が可能になります。

    ビジョンやミッションではない、マーケティング主導のブランディングです。

    マーケティング主導のブランディング

    皆さんは「デザイン思考」という言葉をご存じでしょうか。

    まぁ、これもブランディングと同じバズワードの類に見えますが、一応ちゃんとした定義のある言葉です。

    といいますか、とあるデザイン系の学者というか経営者が提唱した概念で、ググると同じような解説ばかりちゃんと出てきます。

    デザイン思考では起点になるのはユーザーとの共感です。

    ビジョンやミッションではありません。

    ユーザーが何を望んでいるか?がスタートラインです。

    これと似たようなものにユーチューバー思考があります。
    これは今僕が適当に考えた言葉なので定義はありません。
    当たった動画が正解、当たらなかった動画が不正解、という検証をひたすら繰り返していく方法論です。

    どちらも、ユーザー主導です。

    この手法は行ってでは決まりません。
    いわゆるPDCAサイクルをどんどん回していくという手法です。
    打率2割でも人の倍打席に立つという考え方です。

    野球は9階までと決まってますが、ビジネスはやったもの勝ちですからね。

    さ、そこで先ほどの技術的な事情です。

    AIやノーコードツールの進歩で、ひとつの手数を打つためのコストが大幅に下がりつつあります。

    従来は外注して乾坤一擲の気功砲を一発はなっていたのが、これからは一人のスタッフが百裂拳を放つようになるわけです。

    PDCAサイクルとグルンぐるんに回せるんです。
    ターゲットも細かく選定できます。

    例えば、朝、昼、夜でチラシを変える。
    男性用、女性用で表現を変える。いや、もっと年齢も含めて細かく変える。SNSで使い捨ての期限の短い投稿を乱発する。
    従来ならとてもコストが合わなくってできなかったことが、できちゃうじだいがじわじわっとやってきています。

    ビジョンは不要か?

    結論から言えば、もちろんノーです。

    ビジョンが激烈に役に立つシーンがあります。

    それが組織化、チームビルディングです。

    多様性の社会、物理的なモノのあふれた社会では、人はもはや情緒なしには動きません。
    感情の時代です。
    共感がとても重要な時代です。

    スモールビジネスでもパッションが重要になってきます。

    でもパッションは属人的すぎます。

    一人の人間が全員を率いるというスタイルなら問題ありません。

    でも再現性や自律性のある組織運営を、チームビルディングをしていくには、社内外のステークホルダーに組織としての「パッション」を見える化していく必要が出てきます。

    それを僕は企業文化としてのブランディングと呼ぶことにしました。

    これが必要になるのは次の要素を満たす場合です。

    地域密着や消費者参加型のサービスなど人間関係を伴う「共創」を展開する場合。

    社員が自律的に企業運営に参加するような社内での「共創」を展開する場合。

    トップダウンでワンマン経営をするには必要ありません。それは社長の人間力だけで大丈夫です。社長の目の届かない範囲へと事業を広げていきたい時に、組織の関係者が共通認識として抱く、「価値観」もしくは「人格」を具現化する必要が出てくるわけです。

    これはPDCAサイクルがどうこうという話ではありません。

    エデュケーションとコミュニケーション、そのフィードバックから構築してくブランディングです。

    要はブランディングとは

    チームビルディングが必要ならビジョンが必要。

    マーケティングだけならユーザーに聞こう。

    まずはこの二つに要約できると思います。大企業も、マスも、中小企業も、個人事業も、口コミマーケティングも、どぶ板マーケティングも、SNSも。

    次に、

    チームビルディングなら丁寧に時間をかけて。

    マーケティングなら手数を打って。

    AI時代で内製化革命が進んでいけば、マーケティングのための手数に関するデザインコストが激変する可能性があります。

    でもチームビルディングをするなら、コミュニケーションにしっかり時間と手間をかける必要があります。

    全くと言っていいほど違いますので、もし皆さんが誰かのアドバイスを聞いてブランディングしようと思ったなら、その人がどういうニュアンスでこの言葉を使っているかに注視してください。

    そして言葉の定義の整理をまずしてください。

    そして是非、最適なブランディング手法に取り組んでください。