さて。
我々はデザインの話をしたいのですが、現段階では生成AIが一番話が通じるという、呪われた言葉の様相を呈しています。
おそらくこれは、言葉の専門用語性の問題です。
要は業界用語とか、狭い世界での慣用句、定義が一般ではない言葉遣い。
察するにそんなことなんです。
おそらく、皆さんの業界にも普通にあることでしょう。
ある事柄への理解の解像度がコミュニケーションの障害になるというのは、実に一般的な話です。
地動説をテーマにした漫画/アニメ「チ。」が話題になりました。
天動説が主流の時代に地動説を探求する人々のストーリーです。
同じ認識を持つ、いわゆる「共通言語」を持てれば意気投合できるけど、そうでなければ理解しがたい。「チ。」もそういう話だったと思います。
われわれはもうドップリ地動説の側にいるので、彼らは正しい事のために戦っているように見えてしまうけど、リアルタイムで見ていたらどうだったろうか。理科の授業に四苦八苦したような僕が当時の人なら、いかにも無茶なことをしている連中だなって思ったのではないだろうか?
デザインという言葉は実際にとても幅広く使われている言葉です。
デザイナーの中でも明確な定義がなく、我々が使いたい語彙で認識してくれているデザイナーは恐らく少数派です。
デザイナーでさえそうなので、一般の方はなおさらです。
ですので我々はそれをあえて「広義のデザイン」と呼ばなくてはならないでしょう。我々はそんなデザインの話をしたいんです。
デザインって何?
我々にとってそれは、多分生まれつき知っていたものなんです。当然のように世界にある理で、物心ついたころから感覚していました。
どうやらそれはデザインと呼ぶらしい。
そう知ったのは大人になってからです。
そしてどうやらそれは一般的な語彙ではないようだと最近知りました。
僕にとって大きな転機は生成AIでした。
特に昨年あたりのアップデートで、かなり自然な言語、言葉足らずな僕の日本語を正確に捉えてくれるようになったあたりからです。
たとえば以下の文章はChatGPTが生成したものです。
目に見えないもの(たとえば時間の使い方とか、サービスの流れとか)も、ちゃんと“設計”することができる。そしてその設計の考え方は、ロゴやポスターみたいな目に見えるものを作るときと同じように応用できる。
デザインには設計という意味がありますが、これは僕が指示したのではなく、ChatGPTから使ってきた表現です。そして僕の意図した文章です。
ずいぶんとこちらの意図を組んで正確につってくれたな、という感じです。
生成AIは人が作った言葉を大量にインプットして作ったものなので、これは多くの人の共通認識としてこの意味でデザインという言葉を使っているという事です。
まぁ、生成AIを持ち出すまでもなく、デザイン関連諸書籍で読んだり、なにより先輩方から聴いてきた用法、共通言語なんです。
ところが、このニュアンスでは話が通じないデザイナーもいるんです。というのも、この語彙は必ずしもデザイン系の学校で教えられるものではないからです。
僕の師匠にあたる人とは普通にこの語彙で会話していたし、このグループのなかまともこの語彙で会話が出来ている。体感ですが、十人に一人くらいじゃないでしょうか。
要は、デザインとは定義があいまいな言葉なのです。
理由はいくつかあると思います。
この言葉が現在的な意味でつかわれるようになるのは、産業革命時のプロダクトデザインからだと言われています。大量生産されるようになって、職業的なデザイナーが生まれ、マスメディアも生まれて・・・という流れです。
そこで、様々な工業製品から建築やファッション、出版物、印刷物の分野でそれぞれのデザイナーが活躍の場を広げていって現在に至ります。
ただ、広い意味でのデザイン的な行為を考えればもっとさかのぼれます。江戸時代にはすでに屋号やブランドをロゴにしています。もっと古い、遺跡として発掘されるギリシア時代の看板やサインもあります。いや、縄文時代の土器もそうですし、石器時代の石器もデザインされてる言っていいと思います。
デザインという概念が確立するのはここ150年ほどのことですが、デザインという人の行為そのものは、人が意識的に何かの目的のために道具を創り出したころまでさかのぼれそうです。
どこまでがデザイン?
では、蜘蛛の巣やアリ塚はデザインされているのか?
確かに美しい均衡を見出すことは出来ます。ここにはいろいろな意見が分かれるところだと思いますが、僕は、あれはデザインだと思っています。課題を解決するために構造を作る。デザインそのものじゃないですか。
では、サボテンやキノコ、火山活動や河川による台地の浸食、秋の雲や夜空の天野川はどうでしょう。
造形は美しいです。が、デザインとはさすがに言えません。
やはりデザインには、なにかしらの意思が介在しないといけないと思います。
その意味では蝶の羽も、ワニやライオンや人体も、それはデザインではない。ただ、ネコや犬になってくると悩ましい。何かしらの意図は介在してしまっているので、デザインと言っていいように思います。
それでも「サボテンのデザインは」とか「蝶の羽のデザインは」とか言いたくなります。その意匠にはやはりデザインのエッセンスがあるからです。おそらくですが、我々が直感的に感じる美しさや均衡という感覚には、かなり原始的なものが混ざっているようですし、それらの種を越えた造形に共通項を見出すことが出来るからです。
神が世界をデザインしたと言いたくなる気持ちはすごくわかります。
と、このように、デザインという言葉を広く取っていくと、どこまでも広げていくことが出来ます。
今までの話を整理すると、3段階に区分できます。
この世界の法則性としてのデザイン
人類の営みとしてのデザイン
産業としてのデザイン
僕らはこの三つをごっちゃに話しているので、誰かが「神秘的なデザイン」なんて言ったときに、その人が宇宙の神秘をイメージしているのかもしれないし、占い屋の店舗をイメージしているのかもしれないんです。
つまりデザインは、ヒト社会の文化や技術の発展とともにその対象を広げてきた言葉なんです。
産業革命以降は特に、ニーズに合わせてその活躍の場を広げてきました。
よく言われるのが、産業革命で製品が安く大量に作られるようになった時に、生産性を優先して粗悪なものが増えたようなんです。手仕事の時代の良い製品に比べると品質が悪くなったんですね。そこから現在的な「デザイン」が発展していったと言われます。
使い心地や耐久性と生産性を両立するデザインなどが追及されるようになった。その後デザインは、さまざまな技術の進歩と共に、新しい分野で生まれていきます。自動車や家電製品といった機械になると「操作」をデザインする必要が出てきたり、雑誌や新聞広告になると「情報」をデザインする必要が出てきたり、コンピューター、インターネット、SNS・・・とにかく「ほにゃららのデザイン」が次々と生まれていきます。
時代のニーズと共にどんどん専門分野が発生して言った感じなんですね。学問的に枝分かれしていったわけではなく、いろんなところから生まれ出た感じです。
その結果、「デザイン」を俯瞰して教えられるのは美大とかでデザイン史を習う人くらいで、建築家は建築を、グラフィックデザイナーはグラフィックデザインを学ぶといった感じで、デザイナーは専門分野に特化しているのが普通になっていきます。僕も残念ながらファッションデザインがよくわかりません。
では、デザインを共通言語として使うとはどういうことなのか?
その前に、もう一つデザインの特性を考えてみたいと思いおもいます。
それは、僕が若いころにふと思い至ったことです。
デザインに普遍的な価値感は無いのか?
人類に通底する普遍的な「美しいデザイン」は存在するのか?
デザインの普遍性
まず大前提として、僕は人類に共通する「美しいデザイン」という感覚があるとずっと思っていました。なぜなら、自分の子供の頃の記憶をたどってみても、かなり小さいころからデザイン的な美しさを意識ていたと思えるからです。
もちろん、このデザインは―――なんて思っていたわけではなく、あの車の形は何かいいなーとか、変わってるなーとか、面白いなーとか、そんなレベルですよ。でも、造形に対して良し悪しを感じた記憶は、かなり古いものがあります。家族にそんなことに興味ある人はいなかったですし、ぼくも意識して感じたものではないので、多分、ほぼほぼ生まれつきの感覚に近いと思います。
この「良いかたち」という感覚は、僕にとっては生まれつきのものなので、あの人かっこいいとか、あの料理美味しいとか、あの音楽いいとか、そんなことと同じに捉えていました。
なので、美しいデザインには普遍性があるとなんとなく思ってました。
ただ、デザインを仕事にしていくと、そうでもないかもしれないと思える事と多々出会いました
「この料理美味しい」とか「あの俳優さんは美人だね」というのは好みの差こそあれ、判断できないってことはないですよね。
「私はその美味しさわからないわ」という時も、それは好みではないという意味ですよね。中には味音痴だという人もいますし、食べれればなんでもいいという人もいますが、少数派ですよね。
でも、「私はそのデザインはわからないわ」というならともかく、「私はデザインはわからないわ」という人とまぁまぁ頻繁に出会うんです。
味がわからないというレベルで、デザインがわからないという人と良く出会うんです。というか、デザインはプロに任せるのでというわけです。
いやいやいやいや。
日本に生まれたら否応なしにテレビコマーシャルや広告にまみれて、家電製品、文具、建築、何から何までデザインされたものの中で生きてきて、わからんわけないでしょ!
と、最初は思ってましたが、どうやら本当にわからないらしい。
そこから、デザインの普遍性を疑うようになりました。
学習しないと身につかないものなのか?
ダサい服装のデザイナー
僕はある日、あらためてデザインについて考えていて、ふと、自分の服装がダサい事に気付きました。そう、僕の私服はダサいんです。単純に僕は自分自身の身体のデザインが嫌いなので、それに何をあわせてもいいデザインにならないという思いがあるのでファッションはあきらめてるんです。
僕に何を着せても一緒だと。
多分、ファッションデザイナーの勉強をすれば、ある程度は出来ると思います。それはファッションデザインに限らず、そもそもデザインというものは誰でもちゃんと知識を積めばある程度できるようになるものです。でも、現段階ではとても理解の解像度が低い。
完全な情報不足です。
そこで僕は一つの仮説にたどり着きます。
一般の人は人生で我々が話したい意味での「デザイン」を意識することがほとんどないんじゃないか?
つまり認知の対象としてこなかった。
食事はおいしいかどうかは結構子供の頃から聞かれますよね。
「あーん」「おいしい?」はもうセットですよね。
子供の頃からその対象物への判断を訓練されているわけです。
人の容姿もそうです。
あの子可愛い、あの人かっこいいは、何かにつけてジャッジを求められます。
それに対してデザインはどうでしょう?
「この絵本のデザインどう?」とか「この教科書のデザインいいよねー」なんて、まぁ言わないわけです。
でも「あの車かっこいい」とか「その服に合っている」は言うじゃないか。可愛い雑貨とか、かっこいいガジェットとか。いや、お化粧なんかまさにデザインの実践でしょ。
めっちゃ日常的にデザインと接している。
でも、そんな日常的に使うデザインという言葉は、なぜか我々が使いたい意味のデザインとは結び付いていないんです。
つまり、一般的な語彙として共通性を持つには、それを対象化して興味関心を持っていく体験が一般的でないと難しいというだけではないだろうか。
言葉は広く知られているし、きっと価値観として普遍性はあるけど認知がない。
きっとそういうことに違いない。
そう考えて僕は、改めてここで人の認知について勉強しました。人類が共通してもっている認知能力とはどんなものだろうかと思った次第です。
たとえば、人にはまっすぐっぽい造形の連続を「直線」と判断できるように視覚情報を補正する機能があります。なので、まっすぐの線に小さな点をちょっとはみ出してつけてみると、人はそこに注目するようになっています。
この能力がサバンナの生活の何に役に立ったのかわかりませんが、かなり原始的な能力として、人の視覚は他と違うもところを見つけるのが得意いです。
これは、人類に共通する特徴なので、デザインに対する普遍性の根拠の一つになるかもしれません。
こんな感じで色々調べた結果、僕はデザインに普遍性があるという点は間違いないと思っています。
調べれば調べるほど、原始的な人の身体的な特徴から良いデザインが生み出されたと考えるのが妥当で、むしろそれに強く制限されているという印象です。人の視覚は一般的には可視光線しか感知できません。ただそれもいくらかバリエーションがあるようで、色をどう感知するかはかなり個体差がありそうです。おそらく味覚や聴覚も同じで、僕はゴーヤーが苦手なのですが、食べると少し気分が悪くなります。西洋人はワサビのツンとするのを感じにくいと言います。感覚系にはかなりの個体差があると思ったほうがよく、そこに文化や個人的な経験も関係してきます。
だから、そこから知識的な価値観としての「デザイン」に結び付けるには相当な距離があるとも思えてきました。
どこまでを「デザイン」の普遍性と言えるのか?
そんなときにふと「パルテノン神殿ってかっこよくね?」と思い至りました。
歴史的なデザイナーって何を「良いデザイン」と考えていたのだろう?
どう見ても、今と共通している価値観があるよね。
ぜったいあるよね。これ!
少なくとも西洋のデザインは余裕で2~3000年さかのぼれそうだ。
西洋的なデザイン
「デザイン」という概念が明確に使われるようになったのは産業革命以降という話をしました。さらに学校で学ぶような形になるのは第二次大戦後と言ってもいいと思います。特に現在的な意味でつかわれるようになるのは20世紀後半になってからでしょう。
技術や制作スキルの問題があるので、石器時代の壁画をどう考えるかは難しいのですが、建造物の遺跡が残る時代のものは明らかな「デザイン」を見て取ることが出来ます。
エジプトの遺跡とかはもう普通に美しいデザインです。
おそらく人類にはもっと古い時代からデザイン的なセンスの根源があって、技術の発展を待っていたように思えます。幾何学なんて、いまでもデザインの重要なエッセンスで、今でも取り扱いの難しい概念ですよね。
物事を構造的にとらえようとする発想が生まれたときから、デザインは加速したように思えます。多分、重量物(大きな建造物)をどうにかしようとしたあたりからなのではないかと勝手に想像しています。
これはほんとうに勝手な想像なのですが、概念を具現化、もしくは再現しようとして、価値観の構造を考えていったのだと思うんです。
つまり、デザインの根源には、普遍性の追求があったと思うんです。
それが政治のためだったのか、祭祀のためであったのか、戦争のためだったのか、単なる好奇心だったのか。そのすべてだったのかもしれません。
人は、概念を構造化して、再現性あるものにしなければならなかった。
いや、それが出来た者(というか社会)が優位になれた。
一度再現性があるものが作れると、それをベースに発展させることが出来る。
概念を再現性あるものに出来ると、きっと社会の発展が加速したはずです。
ギリシア時代から中世にかけてはそれほど技術が進化しなかったからか変化はゆっくりですが、近世になると技術的な大きなブレイクスルーもあり、世界が大きく変化してく過程で、いろんな分野のクリエイターが増えたのかもしれません。
いろんな立場の人が作品を作り、それが広がり、認知され、発展するというサイクルが回り出したのかもしれません。
とにかく、デザイン的に面白いものがどんどん出始めます。
産業革命前に、すでにデザインはあちらこちらで今に通底する価値観を構造化していっているように僕には思えます。
ここから産業革命を通じて、大衆文化、大量消費、グローバル化、デジタル化と、現在我々が学ぶ西洋的デザインとして発展していきます。
ここであえて西洋的なデザインと言いましたが、我々日本人が習って、今使っているのも基本は西洋のデザインです。
少しややこしいのですが、現在は明治以降100年以上かけて日本文化に西洋文化を混ぜ合わせてきたので、少なくともデザイン面ではかなり日本風味は薄くなりました。
それを端的に示す言葉が「和風」です。
自分たちの文化を「風」と表現するくらい遠いものになっています。
ですので、日本では西洋的なデザインと、かつての日本文化を継承した日本的デザインがあるのですが、日本的デザインよりかは西洋的なデザインの方が強く表れていると思います。
でもそれは文化的な話で、デザインという概念はそれをオーバーラップします。
そのことを僕はある日本画家の作品から確信しました。
西洋かどうかは多分関係ない
そのことを意識したのは、デザインの勉強を始めて、書体のことを学び始めたと気でしょうか。
江戸時代の看板の「意匠」と、今の「デザイン」はイコールではありません。でも、出来上がった成果物をを並べてみると、基本概念は共通しているように思えます。
ですが、やっぱりグラフィックデザインの基本はアルファベットを基準にしていて、日本語はどうしてもうまくなじまないんです。
もちろん日本語のフォントを使ったすごいデザインは一杯あるんですが、文字として、どうにも不格好なんです。でもそれはものすごく当たり前のことで、日本語は毛筆の縦書きでデザインを進化させてきたんですよね。
前後の文字の関係で書き方を変えてバランスをとる、そういう書体として長年進化してきました。だから、一文字の大きさを固定する印刷とは、そもそもデザインが合わないんですよね。
そんな感じで、建築もものづくりも、日本のデザインと西洋のデザインはやはり文化的な背景がかなり異なります。
なので、この作品を見たときは衝撃を受けました。
それが19世紀前半の日本画家、鈴木 其一(すずき きいつ)の作品です。
Wikipediaに掲載されている画像をそのままここに貼ります。
きれいですね。
現在の西洋的なデザインの構成に見えます。
このほかにも彼の作品は現在の西洋デザインと同じ構成の概念を使っているように思えます。
違う文化を土壌にしても、こういうデザインが出来たんだ。これって、めっちゃ普遍的な価値観があるってことじゃないか?
そう思って、あらためていろいろな日本近世のデザインを見てみるとすごく面白いんです。
江戸時代の着物のデザインとか、ふすまのデザインとか、デザイナーが楽しみまくったに違いないってものがいっぱいありますよね。姫路城をデザインした人ってどんなチームだったんでしょうね。遠くから見た美しさを考えていたはずなんだけど、どこでどう学んだんだろう?
ほんとうに戦争中の緊迫した状態で作ったのかと言いたくなるくらい、デザインに遊びを感じるんですよね。
それも、現在のデザイナーがしているような遊びです。
僕が建築無知なのでそう感じるだけかもしれませんが。
この時代のデザインには現在のデザインでも「遊び」ととらえられるような余裕というか、デザイナーが構造をいじくって楽しんでいると思えるデザインがいっぱい出てくることに気付きました。
ただ、歴史的な時間の近さで、ちゃんとした形で現存しているものが多いからそう感じるのかもしれません。
でもでも、西洋でも、日本でもそれがあるって、やっぱりこれは普遍性なのでは。その視点でほかの文化の歴史的な造形物を見てみると、ちょっと違って見えてきました。
アボリジニの道具や中南米の遺跡、東南アジアの遺跡、縄文時代のもの、古墳時代のもの・・・なにか機能だけではないところに、その時代の必要性や概念だけではなく、クリエイターの遊び的なものがあるように見えてきます。
遊びと言って悪ければ、造形を思いついた興奮というか、方に知る楽しさというか。それは神秘的な体験だったのかもしれません。でも現在に通じるものが多々あるように思える。
それは、色々な文化に通底する、普遍的な価値観ではないのだろうか?
「デ。」-デザインの一般性について-
さて、やっと本題です。
我々は「デザイン」の話がしたいんです。
でもこれがなかなかの呪いなんですよ。
今まで見てきた通り、この言葉はかなり多義的に使われていて、しかも歴史の浅い言葉で、しかも複数の分野でそれぞれ勝手に使われていて、しかも、一般の人からは距離を置かれている。
誰もが知っている一般的な単語なのに、ぜんぜん共通認識がないんです。
ぜんぜん共通言語じゃないんです。
だからこそ、我々はここでデザインという言葉の定義の話をしたいんです。
デザインには動かないコアがある。
人類に通底するコアがあるんです。
コアというか、プラットフォームのようなもの。
そのプラットフォームを使って定義できる「広義のデザイン」が存在し、それはある程度科学的に整理できるはず。
僕たちは、そんなデザインの話がしたいんです。
少し詳しく話をしますと、我々はデザインとは普遍的な価値観(法則)に基づくものであり、もうちょっと科学的に話が出来るものだと思っています。
とはいえ「価値観」であったり「価値判断」であったり「感動」であったりと、数値化するのがむづかしい要素を取り扱うものであることには違いありません。
実際問題、かなり情緒的なことを取り扱います。
たとえば、デザイン的な考え方を公式化出来るとしても、そこに人の感情が絡む以上、かなりブレ幅はあると思います。
でも、ある程度共通言語として語れているものを、多少なりとも整理して公式的なものにすれば、デザインがもっと使い勝手のいいものになるのではないだろうか。
我々はそこにデザインの可能性を見出しています。
だからこの、みんな知っているのにぜんぜん共通言語として使えないこのデザインという言葉を、われわれは呪われ言葉だと思っているんです。
この呪いをはらって「デザイン」に、次の新たな展開をもたらしたいのです。
べつに迫害されていませんけどwww