カテゴリー: デザイン

  • デザインにできること「#3 デザイナー的思考??」

    デザインにできること「#3 デザイナー的思考??」

    前回はデザインという言葉について考えてみました。

    今回はさらに掘り下げて、デザイナー的思考について考えてみます。

    #3デザイナー的思考??

    先ほど経産省の「デザイン経営宣言」という取り組みを紹介しましたが、正確には特許庁なんですよ。要は独自サービスをどんどん作って知財をどんどん増やしなはれ、ということなんだと思います。それ自体は和割れれデザイナーにとっては歓迎すべきことですし、ぜひにも、どしどし取り組んでいただきたい。

    ですからなおのこと、より正確に言葉を把握していきたいと思います。

    この「デザイン経営宣言」はデザインのチカラを積極的に経営に生かそうという宣言エス。ブランディングして差別化とか、イノベーションとかデザイナーは基本的に他の人と違うことを考えるのが生きがいみたいな人が多いのでもってこいなんですよね。

    詳しくは経産省のホームページをご覧ください。

    >>兼参照サイト「特許庁はデザイン経営を推進しています」https://www.jpo.go.jp/introduction/soshiki/design_keiei.html

    ただ、ここで気になることが一つあります。

    デザイン経営ハンドブックなるものには「「デザインにぴんとこないビジネスパーソンのための“デザイン経営”ハンドブック」は、デザイン経営のビジネスでの活用のため、「そもそもデザインシンキング(デザイン思考)とは何なのか?その意義と価値はどこにあるのか?なぜ、それがいま大事なのか?」に対する考え方や、デザイン経営を導入するにあたっての8つの課題などを具体的に記載しています。」と書かれているわけです。


    ここで「デザイン思考」という言葉が出てきます。

    「デザイン思考」は1990年代にアメリでフレームワークとしてまとめられたもののことを指すのが一般的です。デザインの思考についての研究はもっと古くからあり、さらに現代でも引き続きされているので、厳密にはいろいろ議論があるようです。

    一般的に「デザイン思考」はある一つのフレームワークのことを指します。検索するとデザイン思考についての書籍がいっぱい出てきますが、多くがその解説本になっています。

    デザイン思考は簡単に言いますと「答えのない課題解決に向いたフレームワーク」です。

    手順は
    1.人の話を聞く
    2.課題を定義する
    3.課題を概念化(分解?)する
    4.解決策の試作をする
    5.その試作をテストする

    で、テストの結果をまたヒアリングして、課題が解決していなければ未解決の部分を定義し、概念化し、試作し、再テスト・・・となります。

    ですので、デザイン思考はよく、プロダクトデザイナーが新製品を開発するときのプロセスを課題解決用にフレームワーク化したものと説明されています。

    つまり、デザイン思考とは、物事の解決手法を、デザイナーの思考法を分析した方法を使って、誰でも再現し、ビジネスなどに応用できるようにしたものです。

    つまり、デザイナー以外が使う可能性があることを前提なのです!!

    ゴルフのドライバーに「プロ」とかついているのと同じです。

    一般の方が使う前提の言葉です。

    ですが、デザイン経営とはデザイナーの能力を活用して問題解決・・・すなわり「目に見えるデザイン」を経営に活用することを中心に据えています。(もちろんそのプロセスで概念をデザインすることになるとは思いますが。)

    ですので、厳密には「デザイン経営」はべつに「デザイン思考」を前提に作られてはおらず、もうすこし広く捉えているようです。デザイナーの能力もデザイン思考も経営に有効活用して知的財産を増やしていく事で競争力を上げられるという感じなんだとおもいます。

    そういうことを推進するって事で経産省の公式ハンドブックにさえ言葉の混乱が見られるわけです。他の実例やコンテンツではデザイン思考にあまり触れていないので、本当に単なる言葉の定義の曖昧さゆえになのだと思います。

    ここで言いたいのは、言葉の定義にうるさそうなお国の取り組みでさえ、正確性を欠いているということです。それほど日本語に染み付いた「デザイン」という言葉の語感と、本来「デザイン」という言葉が持っている定義の広さには乖離があるという事です。

    たとえば、このデザイン思考を積極的にデザイン制作に取り込んでいるデザイン事務所もあります。またデザイン思考自体はわりと普通にデザイナーがしている思考でもあります。ですが、全てのデザイナーが知っている概念でもなければ、使っていないデザイナーもたくさんいます。
    デザイナーでさえ、デザインという言葉の定義は曖昧なのです。

    ちなみにですが、デザイン思考を説明できないデザイナーの方が多数派のはずです。デザイン学校でも習ってない人の方が多いと思います。

    ですので、デザイン思考を知らずにデザイン思考をしているデザイナーもまた多くいると思われます。独自のカスタマイズをした、そうですね、デザイナー的思考としておきましょう。

    あらためて、われわれデザイナーこそ、言葉の定義についてもっと発信していかないといけないと思いました。
    というわけで、どんどん発信してくと改めて決意を固くしました。

    次回は、われわれデザイナーから見て、中小企業でどうデザインを活用してほしいと考えているかについてです。

  • デザインにできること「#2 デザインという言葉」

    デザインにできること「#2 デザインという言葉」

    前回は初回ということで、デザインに出来る事を見てみました。

    今回はデザインという言葉について考えてみます。

    #2 「デザイン」という言葉

    デザインという言葉が現在のような意味で使われ出したのは産業革命以降と言われています。大量生産が始まってからです。
    ですが、デザインそのものはパルテノン神殿やピラミッドをみれば、紀元前何千年からはっきりした形であり、もっと以前の石器や土器にそのルーツは十分見て取れます。

    目的のために意図をもって造形をする。
    これは紛れもなくデザインです。

    ただ、当時の人々はそれを「デザイン」と思って仕事はしていなかったと思います。ただ目的のために、機能のために、祭祀のために、威厳のために、権威のために、神の祝福を受けるために作っていたのだと思います。

    それが、産業革命になると、モノづくりの仕組みが変わってきます。
    それまでは一つ一つ手作りだったものが、大量に生産し、それを一般市民が大量に消費していくようになります。

    また活版印刷などで紙媒体のコストも変わってきます。

    大衆文化の発展と共に、看板やポスターも発展していきます。

    その過程で、専業としてのデザイナーが生まれ、出版や広告業といった情報をあつかうビジネスも発展していきます。

    やがてそれはテレビやラジオにつながり、メディアと言われるものになっていきます。

    そのような過程があるため、いわゆるデザイナーの仕事は大量生産するものの費用対効果を考慮しながら意匠を作る者という、現在一般で思われているであろう定義になっていきます。

    ヒット商品をデザインしたデザイナーや、売り上げに貢献した広告を作ったデザイナー、価格破壊をするイノベーションを考えたデザイナーがすごいデザイナーと言われるようになります。

    やがてそんな消費社会も成熟・・・というか爆発的に成長していく生産力は、あっという間に人類が消費しきれないくらいのものを作れるようになってしまいます。

    モノが飽和して、少なくとも量的には満たされてしまいました。
    そうなると提供する製品やサービスの品質やクオリティと共に、企業という存在の社会的な意義も問われるようになってきました。

    かつてなら単に貿易会社、自動車メーカー、銀行、食品会社でよかったのですが、20世紀半ばにはどんな企業であるかを表現するようになっていきます。

    デザイン的にはCI(コーポレートアイデンティティー)とか呼ばれるものです。

    企業の存在価値をみずから定義し「デザイン」するようになります。

    今ならもう少し平たくブランディングと言っていいと思います。少し整理しますと、歴史的には「デザイン」と意識されていなかったものが大量生産とともに業となり、当初は有形のもののデザインばかりでしたが、やがて企業の存在意義と言った無形のものへとデザインの領域は広がっていきます。

    「デザイン思考」「デザイン経営」

    近年ではこの流れのなかからビジネス的になニュアンスの強い言葉も生まれます。皆さんも聞いたことがあると思いますが、「デザイン思考」や「デザイン経営」です。

    無形のものへと広がった「デザイン」の考え方を、ビジネスに生かそうというもので、デザイン思考は90年代にアメリカで誕生したフレームワークで、デザイン経営については2018年に日本の経産省が知財と絡めてもっとデザインを活用しようとそんなことを言いだしました。

    いずれも従来のプロダクトであったりファッションであったりグラフィックであったりと言った、形あるものを作るデザインではなく、概念や考え方、課題解決の手法として「デザイン」という言葉が使われ出しました。

    もともとデザインという言葉の意味としてあった「設計」というニュアンスからは遠くないのですが、我々の日常語としての「デザイン」の語彙としては、もっぱら実体のあるものの意匠を指す言葉と捉えている人が多いのではないでしょうか。

    いま「デザイン」を考えていると誰かが言ったときに、何か形あるものを考えているのであって、けして課題解決の道筋を考えているとは思わないでしょう。

    ユニクロなどの仕事で著名なデザイナーの佐藤可士和氏は「意味のデザイン」という言葉を使っています。企業ブランドをデザインすることはすなわち、企業の存在する意味、活動する意味、それに関わる人々が得られる価値があるとして、その価値を得る意味・・・といった具合に、概念をデザインするというニュアンスで使われています。

    私も「デザイン」が経営にとって重要な概念になりうるとは思っていますが、しかし、用語としての「デザイン」は少し混乱してしまっているように思えます。

    学術的な意味でのデザインと、一般的なニュアンスのデザインには乖離がありますし、やはり定義があいまいで混乱して用いられているという印象です。

    たとえば「デザイン経営」と銘打った企画でありながら、その内容はデザイナーと一緒に商品化逸発みたいな従来通りの有形物ありきのデザインの話であったりします。

    ちなみに経済産業省のデザイン宣言では「デザイン経営」のための具体的取組として以下のようなものがあげられていました。

    1. デザイン責任者(CDO,CCO,CXO等)の経営チームへの参画
    2. 事業戦略・製品・サービス開発の最上流からデザインが参画
    3. 「デザイン経営」の推進組織の設置
    4. デザイン手法による顧客の潜在ニーズの発見
    5. アジャイル型開発プロセスの実施
    6. 採用および人材の育成
    7. デザインの結果指標・プロセス指標の設計を工夫

    ここでも、デザインを経営に取り入れればよい結果が得られるという捉え方で、デザインという言葉に対する定義そのものへの関心は薄いように見受けられます。おそらく、「デザイン経営という意味」のデザインを十分議論するような空気ではなかったのだと思います。

    しかし、デザイナーとしては、その前提条件にはこだわりたいです。我々もまた「デザイン」の「意味のデザイン」をしなければならないのだと思います。

    というわけで、引き続き「デザイン」の意味を考えていきたいと思います。

  • デザインにできること「#1 デザインに出来る事」

    デザインにできること「#1 デザインに出来る事」

    中小企業にとってのデザインとは何でしょうか?

    デザイン経営とかデザイン思考は一体何を意味するのでしょうか?

    そもそも、デザインはどう活用できるのでしょうか?

    中小企業にとってのデザインとは?

    デザインになにができるかをシリーズ「デザインにできること」で一緒に考えていきたいと思います。

    #1 デザインに出来る事

    まずはデザインが社会やビジネスのどんなシーンで活躍しているか、デザインのジャンル別に整理してみます。ざっと思いつくところですと、以下のような感じでしょうか。

    1. プロダクトデザイン
      • 家電・家具・日用品
      • ユーザー体験と機能性の両立
      • 素材・構造・製造プロセスとの関係
    2. 建築・空間デザイン
      • 店舗・オフィス・展示会ブース
      • 動線計画と空間体験
      • ブランドの世界観を空間に落とし込む
    3. ファッションデザイン
      • 衣服・アクセサリー
      • 機能性とスタイル
      • 流行と文化的背景の反映
    4. グラフィックデザイン
      • ロゴ・名刺・パンフレット・広告
      • 情報整理と視覚化
      • 印象形成と記憶への定着
    5. システムデザイン
      • サービスの仕組み・業務フロー
      • 顧客体験の向上
      • 人や情報の流れを最適化
    6. ウェブデザイン
      • ホームページ・LP・ECサイト
      • 情報設計とUI/UX
      • 集客とブランディングの両立
    7. 概念デザイン
      • 社会課題の解決
      • 新しい価値観・意味づけの創造
      • ストーリーテリングとの連動

    実は日常生活のあらゆるものにデザインがあるのが、現代のわれわれの暮らしです。おそらく、朝起きてから眠りにつくまで、デザイン性の無いものなんて、通勤中に遠くに目る山々とか、ランチで食べたプチトマトとか、帰り道にふと見上げた夕焼けとか、自然物くらいじゃないでしょうか。

    朝起きたときに視界に入るもののすべてがデザインされています。
    今や我々の身の回りのもので、デザインされていない人工物はないと言っても過言ではないでしょう。お子さんが小学校の工作で作った小物入れだってデザインですよ。

    身近過ぎて意識しないってレベルがデザインかもしれません。

    ファッションが好きなら、時計が好きなら、車が好きなら、アイドルが好きなら、それぞれのデザイン性に目が行くことと思います。

    中にはデザインが気に入ったからこの扇風機にしたとか、形がいいからこのゴミ箱にしたとか、ついパッケージで新しいお菓子を買ってしまったり、インスタ映えするカフェのランチをわざわざ並んで食べてみたり。

    デザインは日常でも仕事でも、リラックスたむでも、ピンチの時でも、とにかく今の日本社会はデザインにあふれています。

    救急車の警告灯もサイレンも、音も含めてデザインです。
    危機感を感じる音。遠くまで聞こえる音。雑踏に紛れてしまわない存在感。
    すべて、意図的に設計された「デザイン」です。

    居酒屋のメニューものデザインなら、電車のつり革もデザインです。

    目的があり、もしかすると意図的ではなく、居酒屋のおやじさんが経験で何となく書いているのかもしれませんが、デザインです。

    こんなに身の回りにデザインがあふれているのに、いや、あふれているからこそデザインを気にしなさすぎではないですか?

    というわけで、次はデザインという言葉の意味を考えてみます。

  • 意味をデザインする

    意味をデザインする

    われわれが「デザイン」という時は、まさにこの意味で使っているという動画があったので紹介します。

    この動画は多分、立命館大学の新学部のPR動画ですが、その前段で企業とデザインの話をしています。その部分を是非ご覧いただきたいです。

    「概念のデザイン」「経営者以外も重要」「意味=価値」「問題解決から離れる」「愛について考える」

    なかなか濃密な言葉が詰まっている動画です。
    全部じっくり語りたいくらいですwww

    「企業が存在する意味をデザインするのがブランディング」「正解を作っていく」「意思が大事」。

    こういうのって大企業だけのことだとお思いではありませんか?

    我々は毎年1名でも雇用をする規模感であれば、ほぼほぼ同じように機能するのがここで語られている「デザイン」だと考えています。

    この動画では度々、意味をデザインする。

    例えばビジョン、経営理念などわかりやすいと思います。

    この動画の最後のほうで可士和さんが「星を繋げてかに座を作る」という話をしていますが、まさにそれなんです。

    みなさんは星座の星を線でつないだ図を見て、あれがカニ?双子?オリオン?天秤?って思いませんでしたか?

    僕は強引だなと思ってました。
    でも、かに座はかに座なんです。

    まさに、意味の本質ですよね。

    意味そのものをデザインするとは、物事の価値観を作っていく事であり、それを宣言する事であり、周りに納得してもらうことなんです。

    Wikipedeiaによりますと、16世紀のヨーロッパの星座でかに座(Cancer)にロブスターの絵をあてているものもあるようです。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%BA%A7

    ちなみに癌の英語、Cancerの語源でもあるそうです。
    癌が広がる様子がカニの足を広げる感じに似ていたからだそうです。

    まさに意味の本質は「その意味にすること」なんです。
    意味は作らなくっちゃならないんです。

    まず誰かが「この意味で使う」と決めてなくっちゃいけません。
    決めただけではだめでそれを明文化して宣言しなくてはなりません。
    宣言しただけではだめで、使っていかなくてはなりません。
    使っていくだけではだめで、広めていかなくてはなりません。
    他の人も使い始めて、ようやくその言葉の意味となります。

    企業のビジョンや理念、ブランディングと同じですね。

    つくるのも大変だとは思いますが、それを広めていくのはもっと大変です。
    ですが、経営陣以外がその意味を使い始めたとき、きっと自分たちの努力だけでは作れないものが生まれ始めているはずです。

    丁度この動画の話で、物流の例えが出ていましたが、意味をデザインすることの目的は、その意味を周りに活用してもらう事です。
    意味が価値を創り出していきます。

    デザインにはそういう力があります。

    このデザインのチカラを是非、広めていきたいです。


    余談ですが、AIがデザインに及ぼす影響について佐藤可士和さんが「ポジティブな方向にもっていかないといけない」と言っているのにちょっと安心。
    ぼくも聞かれればこういう表現を使うしかないなと思っているので、同じ意味で使っているのだと、勝手に思う事にしました。

    この裏には、デザイナーにとっては、放っておいたらネガティブな面が強くなるかもしれないという意味が隠れていると思います。

    これはデザイナーの話です。
    AIに出来ない仕事があるという話をしていますが、AIに出来ない仕事をするには相当に勉強しないといけないでしょう。

    一般の方には、ポジティブな影響のほうがはるかに多いと思います。
    デザイナーにはちょっとした試練の時代です。

  • 特級呪物もしくは「デ。」

    特級呪物もしくは「デ。」

    さて。
    我々はデザインの話をしたいのですが、現段階では生成AIが一番話が通じるという、呪われた言葉の様相を呈しています。

    おそらくこれは、言葉の専門用語性の問題です。

    要は業界用語とか、狭い世界での慣用句、定義が一般ではない言葉遣い。

    察するにそんなことなんです。

    おそらく、皆さんの業界にも普通にあることでしょう。

    ある事柄への理解の解像度がコミュニケーションの障害になるというのは、実に一般的な話です。

    地動説をテーマにした漫画/アニメ「チ。」が話題になりました。
    天動説が主流の時代に地動説を探求する人々のストーリーです。
    同じ認識を持つ、いわゆる「共通言語」を持てれば意気投合できるけど、そうでなければ理解しがたい。「チ。」もそういう話だったと思います。

    われわれはもうドップリ地動説の側にいるので、彼らは正しい事のために戦っているように見えてしまうけど、リアルタイムで見ていたらどうだったろうか。理科の授業に四苦八苦したような僕が当時の人なら、いかにも無茶なことをしている連中だなって思ったのではないだろうか?

    デザインという言葉は実際にとても幅広く使われている言葉です。

    デザイナーの中でも明確な定義がなく、我々が使いたい語彙で認識してくれているデザイナーは恐らく少数派です。

    デザイナーでさえそうなので、一般の方はなおさらです。

    ですので我々はそれをあえて「広義のデザイン」と呼ばなくてはならないでしょう。我々はそんなデザインの話をしたいんです。

    デザインって何?

    我々にとってそれは、多分生まれつき知っていたものなんです。当然のように世界にある理で、物心ついたころから感覚していました。

    どうやらそれはデザインと呼ぶらしい。

    そう知ったのは大人になってからです。

    そしてどうやらそれは一般的な語彙ではないようだと最近知りました。

    僕にとって大きな転機は生成AIでした。
    特に昨年あたりのアップデートで、かなり自然な言語、言葉足らずな僕の日本語を正確に捉えてくれるようになったあたりからです。

    たとえば以下の文章はChatGPTが生成したものです。

    デザインには設計という意味がありますが、これは僕が指示したのではなく、ChatGPTから使ってきた表現です。そして僕の意図した文章です。
    ずいぶんとこちらの意図を組んで正確につってくれたな、という感じです。

    生成AIは人が作った言葉を大量にインプットして作ったものなので、これは多くの人の共通認識としてこの意味でデザインという言葉を使っているという事です。

    まぁ、生成AIを持ち出すまでもなく、デザイン関連諸書籍で読んだり、なにより先輩方から聴いてきた用法、共通言語なんです。

    ところが、このニュアンスでは話が通じないデザイナーもいるんです。というのも、この語彙は必ずしもデザイン系の学校で教えられるものではないからです。

    僕の師匠にあたる人とは普通にこの語彙で会話していたし、このグループのなかまともこの語彙で会話が出来ている。体感ですが、十人に一人くらいじゃないでしょうか。

    要は、デザインとは定義があいまいな言葉なのです。

    理由はいくつかあると思います。

    この言葉が現在的な意味でつかわれるようになるのは、産業革命時のプロダクトデザインからだと言われています。大量生産されるようになって、職業的なデザイナーが生まれ、マスメディアも生まれて・・・という流れです。

    そこで、様々な工業製品から建築やファッション、出版物、印刷物の分野でそれぞれのデザイナーが活躍の場を広げていって現在に至ります。

    ただ、広い意味でのデザイン的な行為を考えればもっとさかのぼれます。江戸時代にはすでに屋号やブランドをロゴにしています。もっと古い、遺跡として発掘されるギリシア時代の看板やサインもあります。いや、縄文時代の土器もそうですし、石器時代の石器もデザインされてる言っていいと思います。

    デザインという概念が確立するのはここ150年ほどのことですが、デザインという人の行為そのものは、人が意識的に何かの目的のために道具を創り出したころまでさかのぼれそうです。

    どこまでがデザイン?

    では、蜘蛛の巣やアリ塚はデザインされているのか?
    確かに美しい均衡を見出すことは出来ます。ここにはいろいろな意見が分かれるところだと思いますが、僕は、あれはデザインだと思っています。課題を解決するために構造を作る。デザインそのものじゃないですか。

    では、サボテンやキノコ、火山活動や河川による台地の浸食、秋の雲や夜空の天野川はどうでしょう。
    造形は美しいです。が、デザインとはさすがに言えません。
    やはりデザインには、なにかしらの意思が介在しないといけないと思います。

    その意味では蝶の羽も、ワニやライオンや人体も、それはデザインではない。ただ、ネコや犬になってくると悩ましい。何かしらの意図は介在してしまっているので、デザインと言っていいように思います。

    それでも「サボテンのデザインは」とか「蝶の羽のデザインは」とか言いたくなります。その意匠にはやはりデザインのエッセンスがあるからです。おそらくですが、我々が直感的に感じる美しさや均衡という感覚には、かなり原始的なものが混ざっているようですし、それらの種を越えた造形に共通項を見出すことが出来るからです。

    神が世界をデザインしたと言いたくなる気持ちはすごくわかります。


    と、このように、デザインという言葉を広く取っていくと、どこまでも広げていくことが出来ます。

    今までの話を整理すると、3段階に区分できます。

    この世界の法則性としてのデザイン

    人類の営みとしてのデザイン

    産業としてのデザイン

    僕らはこの三つをごっちゃに話しているので、誰かが「神秘的なデザイン」なんて言ったときに、その人が宇宙の神秘をイメージしているのかもしれないし、占い屋の店舗をイメージしているのかもしれないんです。

    つまりデザインは、ヒト社会の文化や技術の発展とともにその対象を広げてきた言葉なんです。

    産業革命以降は特に、ニーズに合わせてその活躍の場を広げてきました。

    よく言われるのが、産業革命で製品が安く大量に作られるようになった時に、生産性を優先して粗悪なものが増えたようなんです。手仕事の時代の良い製品に比べると品質が悪くなったんですね。そこから現在的な「デザイン」が発展していったと言われます。
    使い心地や耐久性と生産性を両立するデザインなどが追及されるようになった。その後デザインは、さまざまな技術の進歩と共に、新しい分野で生まれていきます。自動車や家電製品といった機械になると「操作」をデザインする必要が出てきたり、雑誌や新聞広告になると「情報」をデザインする必要が出てきたり、コンピューター、インターネット、SNS・・・とにかく「ほにゃららのデザイン」が次々と生まれていきます。

    時代のニーズと共にどんどん専門分野が発生して言った感じなんですね。学問的に枝分かれしていったわけではなく、いろんなところから生まれ出た感じです。

    その結果、「デザイン」を俯瞰して教えられるのは美大とかでデザイン史を習う人くらいで、建築家は建築を、グラフィックデザイナーはグラフィックデザインを学ぶといった感じで、デザイナーは専門分野に特化しているのが普通になっていきます。僕も残念ながらファッションデザインがよくわかりません。

    では、デザインを共通言語として使うとはどういうことなのか?

    その前に、もう一つデザインの特性を考えてみたいと思いおもいます。

    それは、僕が若いころにふと思い至ったことです。

    デザインに普遍的な価値感は無いのか?

    人類に通底する普遍的な「美しいデザイン」は存在するのか?

    デザインの普遍性

    まず大前提として、僕は人類に共通する「美しいデザイン」という感覚があるとずっと思っていました。なぜなら、自分の子供の頃の記憶をたどってみても、かなり小さいころからデザイン的な美しさを意識ていたと思えるからです。

    もちろん、このデザインは―――なんて思っていたわけではなく、あの車の形は何かいいなーとか、変わってるなーとか、面白いなーとか、そんなレベルですよ。でも、造形に対して良し悪しを感じた記憶は、かなり古いものがあります。家族にそんなことに興味ある人はいなかったですし、ぼくも意識して感じたものではないので、多分、ほぼほぼ生まれつきの感覚に近いと思います。

    この「良いかたち」という感覚は、僕にとっては生まれつきのものなので、あの人かっこいいとか、あの料理美味しいとか、あの音楽いいとか、そんなことと同じに捉えていました。

    なので、美しいデザインには普遍性があるとなんとなく思ってました。

    ただ、デザインを仕事にしていくと、そうでもないかもしれないと思える事と多々出会いました

    「この料理美味しい」とか「あの俳優さんは美人だね」というのは好みの差こそあれ、判断できないってことはないですよね。

    「私はその美味しさわからないわ」という時も、それは好みではないという意味ですよね。中には味音痴だという人もいますし、食べれればなんでもいいという人もいますが、少数派ですよね。

    でも、「私はそのデザインはわからないわ」というならともかく、「私はデザインはわからないわ」という人とまぁまぁ頻繁に出会うんです。

    味がわからないというレベルで、デザインがわからないという人と良く出会うんです。というか、デザインはプロに任せるのでというわけです。

    いやいやいやいや。
    日本に生まれたら否応なしにテレビコマーシャルや広告にまみれて、家電製品、文具、建築、何から何までデザインされたものの中で生きてきて、わからんわけないでしょ!

    と、最初は思ってましたが、どうやら本当にわからないらしい。

    そこから、デザインの普遍性を疑うようになりました。

    学習しないと身につかないものなのか?

    ダサい服装のデザイナー

    僕はある日、あらためてデザインについて考えていて、ふと、自分の服装がダサい事に気付きました。そう、僕の私服はダサいんです。単純に僕は自分自身の身体のデザインが嫌いなので、それに何をあわせてもいいデザインにならないという思いがあるのでファッションはあきらめてるんです。

    僕に何を着せても一緒だと。

    多分、ファッションデザイナーの勉強をすれば、ある程度は出来ると思います。それはファッションデザインに限らず、そもそもデザインというものは誰でもちゃんと知識を積めばある程度できるようになるものです。でも、現段階ではとても理解の解像度が低い。
    完全な情報不足です。

    そこで僕は一つの仮説にたどり着きます。

    一般の人は人生で我々が話したい意味での「デザイン」を意識することがほとんどないんじゃないか?

    つまり認知の対象としてこなかった。

    食事はおいしいかどうかは結構子供の頃から聞かれますよね。

    「あーん」「おいしい?」はもうセットですよね。

    子供の頃からその対象物への判断を訓練されているわけです。

    人の容姿もそうです。

    あの子可愛い、あの人かっこいいは、何かにつけてジャッジを求められます。

    それに対してデザインはどうでしょう?

    「この絵本のデザインどう?」とか「この教科書のデザインいいよねー」なんて、まぁ言わないわけです。

    でも「あの車かっこいい」とか「その服に合っている」は言うじゃないか。可愛い雑貨とか、かっこいいガジェットとか。いや、お化粧なんかまさにデザインの実践でしょ。
    めっちゃ日常的にデザインと接している。

    でも、そんな日常的に使うデザインという言葉は、なぜか我々が使いたい意味のデザインとは結び付いていないんです。

    つまり、一般的な語彙として共通性を持つには、それを対象化して興味関心を持っていく体験が一般的でないと難しいというだけではないだろうか。

    言葉は広く知られているし、きっと価値観として普遍性はあるけど認知がない。

    きっとそういうことに違いない。

    そう考えて僕は、改めてここで人の認知について勉強しました。人類が共通してもっている認知能力とはどんなものだろうかと思った次第です。

    たとえば、人にはまっすぐっぽい造形の連続を「直線」と判断できるように視覚情報を補正する機能があります。なので、まっすぐの線に小さな点をちょっとはみ出してつけてみると、人はそこに注目するようになっています。

    この能力がサバンナの生活の何に役に立ったのかわかりませんが、かなり原始的な能力として、人の視覚は他と違うもところを見つけるのが得意いです。

    これは、人類に共通する特徴なので、デザインに対する普遍性の根拠の一つになるかもしれません。

    こんな感じで色々調べた結果、僕はデザインに普遍性があるという点は間違いないと思っています。

    調べれば調べるほど、原始的な人の身体的な特徴から良いデザインが生み出されたと考えるのが妥当で、むしろそれに強く制限されているという印象です。人の視覚は一般的には可視光線しか感知できません。ただそれもいくらかバリエーションがあるようで、色をどう感知するかはかなり個体差がありそうです。おそらく味覚や聴覚も同じで、僕はゴーヤーが苦手なのですが、食べると少し気分が悪くなります。西洋人はワサビのツンとするのを感じにくいと言います。感覚系にはかなりの個体差があると思ったほうがよく、そこに文化や個人的な経験も関係してきます。

    だから、そこから知識的な価値観としての「デザイン」に結び付けるには相当な距離があるとも思えてきました。

    どこまでを「デザイン」の普遍性と言えるのか?

    そんなときにふと「パルテノン神殿ってかっこよくね?」と思い至りました。

    歴史的なデザイナーって何を「良いデザイン」と考えていたのだろう?

    どう見ても、今と共通している価値観があるよね。
    ぜったいあるよね。これ!

    少なくとも西洋のデザインは余裕で2~3000年さかのぼれそうだ。

    西洋的なデザイン

    「デザイン」という概念が明確に使われるようになったのは産業革命以降という話をしました。さらに学校で学ぶような形になるのは第二次大戦後と言ってもいいと思います。特に現在的な意味でつかわれるようになるのは20世紀後半になってからでしょう。

    技術や制作スキルの問題があるので、石器時代の壁画をどう考えるかは難しいのですが、建造物の遺跡が残る時代のものは明らかな「デザイン」を見て取ることが出来ます。

    エジプトの遺跡とかはもう普通に美しいデザインです。

    おそらく人類にはもっと古い時代からデザイン的なセンスの根源があって、技術の発展を待っていたように思えます。幾何学なんて、いまでもデザインの重要なエッセンスで、今でも取り扱いの難しい概念ですよね。

    物事を構造的にとらえようとする発想が生まれたときから、デザインは加速したように思えます。多分、重量物(大きな建造物)をどうにかしようとしたあたりからなのではないかと勝手に想像しています。

    これはほんとうに勝手な想像なのですが、概念を具現化、もしくは再現しようとして、価値観の構造を考えていったのだと思うんです。

    つまり、デザインの根源には、普遍性の追求があったと思うんです。

    それが政治のためだったのか、祭祀のためであったのか、戦争のためだったのか、単なる好奇心だったのか。そのすべてだったのかもしれません。

    人は、概念を構造化して、再現性あるものにしなければならなかった。

    いや、それが出来た者(というか社会)が優位になれた。

    一度再現性があるものが作れると、それをベースに発展させることが出来る。

    概念を再現性あるものに出来ると、きっと社会の発展が加速したはずです。

    ギリシア時代から中世にかけてはそれほど技術が進化しなかったからか変化はゆっくりですが、近世になると技術的な大きなブレイクスルーもあり、世界が大きく変化してく過程で、いろんな分野のクリエイターが増えたのかもしれません。

    いろんな立場の人が作品を作り、それが広がり、認知され、発展するというサイクルが回り出したのかもしれません。

    とにかく、デザイン的に面白いものがどんどん出始めます。

    産業革命前に、すでにデザインはあちらこちらで今に通底する価値観を構造化していっているように僕には思えます。

    ここから産業革命を通じて、大衆文化、大量消費、グローバル化、デジタル化と、現在我々が学ぶ西洋的デザインとして発展していきます。

    ここであえて西洋的なデザインと言いましたが、我々日本人が習って、今使っているのも基本は西洋のデザインです。

    少しややこしいのですが、現在は明治以降100年以上かけて日本文化に西洋文化を混ぜ合わせてきたので、少なくともデザイン面ではかなり日本風味は薄くなりました。

    それを端的に示す言葉が「和風」です。
    自分たちの文化を「風」と表現するくらい遠いものになっています。

    ですので、日本では西洋的なデザインと、かつての日本文化を継承した日本的デザインがあるのですが、日本的デザインよりかは西洋的なデザインの方が強く表れていると思います。

    でもそれは文化的な話で、デザインという概念はそれをオーバーラップします。

    そのことを僕はある日本画家の作品から確信しました。

    西洋かどうかは多分関係ない

    そのことを意識したのは、デザインの勉強を始めて、書体のことを学び始めたと気でしょうか。

    江戸時代の看板の「意匠」と、今の「デザイン」はイコールではありません。でも、出来上がった成果物をを並べてみると、基本概念は共通しているように思えます。

    ですが、やっぱりグラフィックデザインの基本はアルファベットを基準にしていて、日本語はどうしてもうまくなじまないんです。

    もちろん日本語のフォントを使ったすごいデザインは一杯あるんですが、文字として、どうにも不格好なんです。でもそれはものすごく当たり前のことで、日本語は毛筆の縦書きでデザインを進化させてきたんですよね。

    前後の文字の関係で書き方を変えてバランスをとる、そういう書体として長年進化してきました。だから、一文字の大きさを固定する印刷とは、そもそもデザインが合わないんですよね。

    そんな感じで、建築もものづくりも、日本のデザインと西洋のデザインはやはり文化的な背景がかなり異なります。

    なので、この作品を見たときは衝撃を受けました。

    それが19世紀前半の日本画家、鈴木 其一(すずき きいつ)の作品です。

    Wikipediaに掲載されている画像をそのままここに貼ります。

    鈴木wiki

    きれいですね。
    現在の西洋的なデザインの構成に見えます。
    このほかにも彼の作品は現在の西洋デザインと同じ構成の概念を使っているように思えます。

    違う文化を土壌にしても、こういうデザインが出来たんだ。これって、めっちゃ普遍的な価値観があるってことじゃないか?

    そう思って、あらためていろいろな日本近世のデザインを見てみるとすごく面白いんです。

    江戸時代の着物のデザインとか、ふすまのデザインとか、デザイナーが楽しみまくったに違いないってものがいっぱいありますよね。姫路城をデザインした人ってどんなチームだったんでしょうね。遠くから見た美しさを考えていたはずなんだけど、どこでどう学んだんだろう?

    ほんとうに戦争中の緊迫した状態で作ったのかと言いたくなるくらい、デザインに遊びを感じるんですよね。

    それも、現在のデザイナーがしているような遊びです。

    僕が建築無知なのでそう感じるだけかもしれませんが。

    この時代のデザインには現在のデザインでも「遊び」ととらえられるような余裕というか、デザイナーが構造をいじくって楽しんでいると思えるデザインがいっぱい出てくることに気付きました。

    ただ、歴史的な時間の近さで、ちゃんとした形で現存しているものが多いからそう感じるのかもしれません。

    でもでも、西洋でも、日本でもそれがあるって、やっぱりこれは普遍性なのでは。その視点でほかの文化の歴史的な造形物を見てみると、ちょっと違って見えてきました。

    アボリジニの道具や中南米の遺跡、東南アジアの遺跡、縄文時代のもの、古墳時代のもの・・・なにか機能だけではないところに、その時代の必要性や概念だけではなく、クリエイターの遊び的なものがあるように見えてきます。

    遊びと言って悪ければ、造形を思いついた興奮というか、方に知る楽しさというか。それは神秘的な体験だったのかもしれません。でも現在に通じるものが多々あるように思える。

    それは、色々な文化に通底する、普遍的な価値観ではないのだろうか?

    「デ。」-デザインの一般性について-

    さて、やっと本題です。

    我々は「デザイン」の話がしたいんです。

    でもこれがなかなかの呪いなんですよ。

    今まで見てきた通り、この言葉はかなり多義的に使われていて、しかも歴史の浅い言葉で、しかも複数の分野でそれぞれ勝手に使われていて、しかも、一般の人からは距離を置かれている。

    誰もが知っている一般的な単語なのに、ぜんぜん共通認識がないんです。

    ぜんぜん共通言語じゃないんです。

    だからこそ、我々はここでデザインという言葉の定義の話をしたいんです。

    デザインには動かないコアがある。

    人類に通底するコアがあるんです。

    コアというか、プラットフォームのようなもの。

    そのプラットフォームを使って定義できる「広義のデザイン」が存在し、それはある程度科学的に整理できるはず。

    僕たちは、そんなデザインの話がしたいんです。

    少し詳しく話をしますと、我々はデザインとは普遍的な価値観(法則)に基づくものであり、もうちょっと科学的に話が出来るものだと思っています。

    とはいえ「価値観」であったり「価値判断」であったり「感動」であったりと、数値化するのがむづかしい要素を取り扱うものであることには違いありません。

    実際問題、かなり情緒的なことを取り扱います。

    たとえば、デザイン的な考え方を公式化出来るとしても、そこに人の感情が絡む以上、かなりブレ幅はあると思います。

    でも、ある程度共通言語として語れているものを、多少なりとも整理して公式的なものにすれば、デザインがもっと使い勝手のいいものになるのではないだろうか。

    我々はそこにデザインの可能性を見出しています。

    だからこの、みんな知っているのにぜんぜん共通言語として使えないこのデザインという言葉を、われわれは呪われ言葉だと思っているんです。

    この呪いをはらって「デザイン」に、次の新たな展開をもたらしたいのです。

    べつに迫害されていませんけどwww